「ミサイル防衛」という壮大な虚構『選択』4月号(選択出版)

 以前、どこかのお城の博物館で、「かち合い弾」の展示を見たことがある。火縄銃を両側から射ち合って、ちょうど弾丸が空中でかち合ったものだ。狙ってできるものではないだろう。「成功したら一億円」と言われても、まず御免こうむる。

 小泉政権以来、北朝鮮によるミサイルの脅威に対応すべく、我が国が米国と共同で血道をあげて開発を進めているMD(ミサイル・ディフェンス)だが、どうもこの、「かち合い弾」なのではとの疑念が拭えない。

 無論、銃弾よりも弾道ミサイルは遥かに大きく、こちらへ命中するまでの時間も長く、非常に高性能なレーダーで捉えられますよと、こういう話は知っているが、やはり信用ならない。実験ではちゃんと撃ち落しているようだが、「いつ・どこから」発射されるかわかっているものを撃つのだから、実戦と難易度が遥かに異なるのではないか。やはり、どうも眉唾である。

『選択』4月号(選択出版)に、米国製「破れ傘」に消える税金と安全、というサブタイトルの記事が掲載されていた。

「日本のイージス艦は四隻だけ。一隻が同時に撃ち落せる弾道ミサイルは数発止まりだから、北朝鮮がミサイルを乱れ撃ちしてきたら、ひとたまりもない」とのことである。

 なるほど、ちゃんと全部命中するものとして仮定しても、数が追いつかないらしい。これはいよいよ絶望的と言わねばならない。何しろ、一発でも撃ち漏らし、東京駅に着弾した日には、西は浜松町あたりまで吹っ飛ぶのだから、こんなものをアテにはしていられない。

 では、敵が核ミサイルを発射する前に吹き飛ばすしかないわけだが、『選択』4月号(選択出版)の記事では、敵基地攻撃能力の保有についても言及していた。

 私としては、これ以外に採用できる手段はないように思うが、当然外交上の摩擦は不可避であり、「よい選択」とは言えない。

 かの福沢諭吉は「政治は悪さ加減の選択である」との言葉を遺し、毛沢東は「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」と喝破したが、してみると、安全保障もまた、悪さ加減の選択なのだろう。

 

参考記事:「ミサイル防衛」という壮大な虚構 『選択』4月号(選択出版)